トイレで修行ってどういうこと?

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突然ですが皆さんは、「トイレも立派な修行です」と言われてピンとくるでしょうか?

当然、便器にまたがり両の足に力を込めて踏ん張ることではありません

少しずつオムツを卒業…という意味でもありません。

いろんな宗派がある日本仏教の中で、曹洞宗の特徴というとやはり「修行」です。

もちろん他宗派にも修行はありますが、特に生活そのものに目を向け、起きてから寝るまでの全てを修行としたのは曹洞宗の特徴と言えるでしょう。

そこで私たち曹洞宗の僧侶は、「曹洞宗では生活の全てを修行としており、お風呂やお手洗いも大切な修行なのです」と話お伝えします。

しかしどれだけもっともらしい顔でありがたい雰囲気を出して説かれても、トイレを修行とはなかなか思えないはず。

結論から先に言えば、トイレはとても重要な修行です

ではなぜトイレが修行と言えるのか、今回は少し考えてみます。

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修行僧のユートピア

私が修行生活を送った永平寺をはじめ、禅宗の修行道場は「七堂伽藍しちどうがらん」という7つの建物からなる構成があります。

その中にある東司とうす」という建物がトイレなのです。

排泄物を出すトイレは屋外の離れにひっそりとありそうなものですが、修行道場の中心となる建物の一つに入っているのは意外ですよね。

永平寺の七堂伽藍にあるトイレは、全て個室の和式です

そのため大小を問わず必ずしゃがんで用を足すことになります。

そして修行僧にとってこのトイレのありがたいことは「個室」であるということ。

365日が共同生活で、基本的に個室を持つことのない修行生活の中で1人になれる空間というのはトイレくらいのものです。

掃除も行き届き、なおかつプライバシーが守られるトイレは、修行僧のユートピアと言っても過言ではありません。

見られないからこそ真価が問われる

実際にこのユートピアには、修行を生活を送った僧侶であればそれぞれに思い出があるかと思います。

こっそり手に入れたお菓子を食べた人便器を避けるように体育座りで居眠りをした人、様々でしょう。

私にもそんな経験があります。

しかし今振り返ってみると、あのトイレというプライベート空間でこそ、修行の真価が問われていたとのだと思います。

修行生活では、坐禅はもちろん、歩き方からご飯の食べ方までを先輩に見られ、同期に見られ、後輩にも見られます。

たくさんの目がある中で気を張り、正しくあろうとすることは、慣れてしまえば難しいことではありません。

しかし一転して、人が見ていないところで自分を正しく律するというのはなかなか難しいことなのです。

トイレで考えてみれば、友人の家のトイレを借りるときは、周りを汚さないように、汚しても綺麗に拭いて出るように、という風に心がけるのは当然のこと。

なぜなら持ち主が明確で、「自分がやった」とすぐに気づかれるからです。

しかし、不特定多数の人が使う駅のトイレや、居酒屋のトイレなどではどうでしょうか?

男性であれば、入った時に便座が上がったままでなおかつ汚れていると、そこに触れないように立ったまま用を足し、また汚してしまう。

そして自分だけの汚れじゃないからと、そのままにしてトイレを出てしまう。

そこが男女共用のトイレでもです

自分の行動によって不快な思いをする人がいるかもしれないとわかっていながら、綺麗にしようとはしない。

そんな「見えないところ」での行いの積み重ねが、汚いトイレを作っていくのです。

汚いからこそ清らかに

トイレは、当然のことながら人間が排泄をするための場所です。

心理的にも衛生的にも「汚い場所」と言っても間違いではないでしょう

ではなぜ、そんな汚い場所はノーカンにして、トイレは修行の範囲外にしなかったのでしょうか?

今月から坐禅会を開催させていただいている世田谷区駒沢のK's studioさんのトイレに、こんな張り紙がありました。

これを見たとき、ここで坐禅ができることになって本当によかったなあと思いました。

なぜならこの張り紙に書かれていることは、トイレを使う上での他者への思いやりであり、これは坐禅をする会場としてはとても大切な意識だからです。

なぜこの張り紙を紹介するかというと、私が時々利用する区営のスポーツセンターのジムがあるのですが、そちらのトイレはいつもスリッパが散乱していて、トイレの周りも汚れています。

健康の為か筋肉増量の為かはわかりませんが、トレーニングをしにきていくら身体を動かしても、これでは意味がないような気がします。

老廃物を出して身体はすっきり、トレーニングも捗る。

あとは汚れていようが知ったこっちゃない。

これでは、身体を鍛えようが、心は自分勝手で思いやりのないものになってしまいます。

心は身体の行いによって育まれるもの。

それ故に、他人を思いながら生活をすることは、行いに丁寧さを生み、心に穏やかさを生みます。

運動にしても坐禅にしても、自己満足の為だけにやってしまえばただの貪りです。

自分の今の行いは、たとえ人が見ていなくても自分は見ています。

そして自分の今の行いは、目の前ではわからなくても必ず誰かに影響を与えています。

この精神をもって生きていくことこそが坐禅には重要であり、修行の根っこともいえます。

そうして他への思いやりを忘れなければ、トイレだって素晴らしい修行の場となっていくのです。

人に見られない、汚れを出す行為だからこそ、きれいな心をもって行いたいですね!

 

 

 

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