応援と祈り

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つい先日のニュース。

新型コロナウイルスの影響で中止となったセンバツ高校野球の代替として、

甲子園での交流試合の開催が決定され、その組み合わせが発表されました。

いち高校野球ファンとして、個人的にもっとも注目の組み合わせは、履正社VS星稜のカード。

昨夏の夏の甲子園の決勝と同カードとなるこの対戦、是非とも見逃したくないところです。

さて、今回の記事のテーマはタイトルにもある通り「応援」です。

残念ながら今年はブラスバンドによる応援はされないようですが

各校独自のブラスバンドで展開される応援合戦も甲子園の見どころの一つ。

今回は、禅活の野球観戦大好きおじさんこと久保田が、「応援」について思うところを述べていきます。

Contents

高校野球の応援歌

スポーツにつきものの「応援」

特に日本の野球は応援が盛んなスポーツです。

鳴り物つきの応援には、競技に集中できないという理由で否定的な意見も聞かれる一方、

根強いファンも存在します。(久保田ももちろんその一人)

思えば一つの競技を観戦する時には、様々な思いが胸に去来します。

好きな選手の活躍を願う気持ちが生まれることもあれば、

事故が起きず無事に競技が進行してほしいと祈ることもある。

なんとかしてその想いを届けたいと思うのも、当然のことです。

声援を一つにまとめ、身体の動きで思いを表現するチアリーディングや応援団の演舞など。

工夫を凝らして展開される応援は、もはやひとつの文化と言ってもいいかもしれません。

それが日本の野球では「応援歌」という形をとります。

特に高校野球。

たった一度しかない夏に、すべての想いを乗せて演奏される応援歌には感動を禁じえません。

 

せっかくなので、今回は久保田がひときわ感動した、ある応援歌をご紹介いたします。

甲子園で流れた「シダックスファイヤー」

それは2018年春夏甲子園に出場した、千葉県代表・中央学院高校のチャンステーマ。

その名も「中央学院ファイヤー」です。

この曲のもととなったのは、2006年に廃部になった社会人野球シダックスのチャンステーマ、「シダックスファイヤー」です。

シダックス廃部後、一部選手が移籍したセガサミーの応援歌として受け継がれ「セガサミーファイヤー」として演奏され続けてきたのですが、いつの頃からか演奏リストから消滅してしまいました。

そう、この曲は……一度は、もうどの球場でも演奏されることのない曲になったのです。

「シダックス野球部にゆかりのある現役選手がほぼいなくなった今、もうファイヤーが演奏されることはないだろうなあ。」

諦めかけていたその時、2018年春のセンバツのテレビ中継から「シダックスファイヤー」が流れてきて、一時は耳を疑いました。

似たメロディを聴き違えただけかもしれない。

そう思いながらテレビにかじりつき、耳を澄ませると……

間違いなく「シダックスファイヤー」が甲子園の大舞台で演奏されているではありませんか!

感動に打ち震え、しばらく試合の様子を見守っていると、ある疑問が湧き上がります。

一体どうして中央学院がこの曲を?

不思議に思い調べてみると、中央学院の監督がシダックス野球部出身であったことをきっかけに復活したということがわかりました。

「なるほど、確かにシダックス出身の現役選手はいなくなったかもしれないけれども、指導者となっている場合もあるか。」

納得するとともに、廃部となっても残り続けてきたシダックス野球部の記憶が、より鮮明によみがえってきたような感覚がしました。

野間口投手や武田勝投手、森福允彦投手など、その後プロ野球の舞台で活躍する選手を育て、

社会人野球で確かな存在感を発揮し続けたシダックス野球部。

また2003年から2005年まで指揮をとった野村克也監督の教え。

それらが、確かに残り続けてきたという証明。

テンポの良い音楽の中、こみ上げる記憶の奔流に、気づけばほろりと涙がこぼれていました。

「応援」と「祈り」

「シダックスファイヤー」の話はともかくとして……

いわば、応援は一つの祈りのようなものだと私は考えています

手を叩き、声を出し、心を合わせ……

願いを、想いを選手に届けようとするのが応援です。

そこに不思議な神聖さのようなものを感じずにいられません。

競技をしている主体はあくまで選手であり、冷たい言い方をすれば応援をしている人は部外者です。

しかし、自分が手出しできる領域を超えていてもなお、願わずには、祈らずにはいられない

想わずには、声を掛けずにはいられない。

人間に備わっている他者を想う気持ち。その発露のひとつが応援だと思えるのです。

 

ここであえて言います。

応援は、祈りは必ず伝わります。

結果が見えなくても、直接かかわることができなくても、その想いは伝わっていきます。

私が中央学院の「シダックスファイヤー」に大きな感動を与えてもらえたのは、

かつてシダックス野球部が存在し、多くの人々がそこに心を寄せて応援したという事実があったからです。

あるいは、シダックスファイヤーの復活自体が、多くの人に願われていたということもあるかもしれません。

応援や祈りの力の大きさは、ともすれば届ける予定のなかった人にまで届いて、よい影響を与えてしまうものなのでしょう。

まとめ

さて、宗教には重要な要素として「祈り」があります。

日本の仏教ははじめ、国家の安寧を願う宗教として受け容れられました。

科学や医療がまだない時代、飢饉や疫病など対処の仕様がない困難に際し、僧侶は祈りを捧げました。

それによって、仮に目に見える効果が出なかったとしても、人々の心を救ったのです。

それから時は経ち、科学や医療が充実した今でも、宗教は、人はまだ祈るという行動をやめていません。

仮にその想いや願い、目的が果たせない、届かないとしてしても、届けたいと願う。

仏教では「祈り」という言葉をあまり使いませんが、亡くなった方の冥福、ご家族の健康や安全を、僧侶は祈ります。

私が以前法話でお話した『四弘誓願文』のように、それが途方もないことだとしても祈り、歩んでいくことが仏道でもあるのです。

だから私は、今日も仏道として、野球選手の健康や安全、ナイスプレーを応援し(祈り)続けるのです。

 

それでは最後に、ひとつ祈りを捧げて本記事を終えます。

「願わくは今年の高校野球も素晴らしい試合が多くありますように」

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