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坐禅というと、緑に囲まれて綺麗な庭園があり、どこからともなく小川のせせらぎの音が聞こえるお寺で…というイメージがある方も多いはず。

しかしそんな環境を見つけるのは都会であるほど困難なものです。

特に気になるのが「音」の問題。

坐禅をする時は無音でなければいけないのか、それとも許される音があるのか。

今回は坐禅と「雑音」に関するお話です。

修行中の坐禅の「音」

まずはじめに、私が修行生活を送った永平寺での坐禅の様子を振り返ってみたいと思います。

眠りから覚め、洗面後すぐに坐る早朝の坐禅。

永平寺では日の出の時間に合わせて、夏は3時半冬は4時半の起床から間もなく、洗面が終わった人から坐ります。

言葉を発することなく、各々姿勢と呼吸を調え、全員が揃った頃に坐禅堂の鐘が鳴ります。

カーーーン…

カーーーン…

カーーーン…。

それから聞こえてくるのは、直堂という見回りの僧侶の静かな足音と、時折警策で肩を叩いて寝ている人起こす音。

あとは、動物や虫の鳴き声、屋根に積もった雪が落ちる音、雪解け水が山内の水路を流れる音など、季節季節の音だけがどこからともなく耳に入ります。

雑音と言われるような音はなく、素晴らしい環境でした。

確かに理想的ではありますが、坐禅はあの環境でしかできないものなのでしょうか?

坐禅会の現実

今、実際に禅活-zenkatsu-で開催している「ほっと晩ごはん」でいす坐禅をする際には、真上で電車が走っている音がします。

「リラックス坐禅」ではすぐ近くにある高速道路を行き交う車の音。

私たちはこうした「雑音」と隣り合わせの環境で坐禅をしています。

これは禅活-zenkatsu-が坐禅をしている場所がお寺ではないせいもあるかもしれません。

しかし、私たちが日常生活の中で永平寺のような静けさを実現するのはまず難しいでしょう。

では禅活-zenkatsu-が目指す「日常的にできる坐禅」は実現不可能なものなのでしょうか?

人や車が行き交い、深夜まで静かにならないような場所では坐禅はできないのでしょうか?

Be silent

坐禅と音の問題を考えると、思い出すお話があります。

それは昔たまたま観たフジテレビの「世にも奇妙な物語」「Be silent」というお話です。

物語のあらすじは以下の通り。

あるところに一人の作曲家がいた。
作曲家はとても有名で、そして、人気だった。
そしてある時、あるイベントの曲の作曲を頼まれた。作曲家はその曲に取りかかる。
しかし、作ろうとしても、作ろうとしても、どうしても自分の納得のいくようにならない。

そして、だんだんと、ノイローゼ気味になり、周りの音が気になり始める

初めは、工事の音やテレビの音など、大きなものだった。
それがだんだんと、スリッパの音、コーヒーポットの音、冷蔵庫の音・・・とエスカレートし、作曲家はその音を、全て消そうとする。
そんな作曲家を妻も心配し始めるが、その妻のたてる些細な音でさえ、作曲家の耳には轟音に聞こえる。
そしてついには、妻も作曲家に愛想を尽かし、家を出て行ってしまう・・・。
「音のない場所へ」
そんな作曲家を心配して、作曲家の友人であり、仕事相手である男は、作曲家を「音のない部屋」へ、連れて行く。
この「音のない部屋」、中の音が全て周りの壁に吸収され完全な無音状態になるという。
作曲家は、この部屋に満足し、作曲を始める。己の邪魔をする音もなく、作曲家の楽譜にもオタマジャクシが泳ぎ始める。
だが、作曲家は気付いてしまった・・・。
この部屋に存在する“音”に、――己の鼓動――に。
そして作曲家はその音を消した。完全なる“無音”へとするべく・・・

仕事に集中するために無音を求めた作曲家が、最後は自分の鼓動の音に気づいてそれを止めてしまった。

坐禅をしていて「雑音が気になって〜」というご意見が出ると、私はこのお話を思い出すのです。

 

「雑音」と決めるのは誰?

実はここまで雑音という言葉に「」をつけてきたのには理由があります。

それは、そもそも雑音という音は存在しないからです。

私たち人間には好みというものがあります。

好きな音、嫌いな音、好きな味、嫌いな味…

それを個人の感覚で「心地いい」とか「不快」とか「おいしい」「まずい」という言葉で表すことがあります。

川のせせらぎや小鳥がさえずる音は心地よくて、車の音は雑音

実はこの「雑」というのは私たちが勝手につけた音の好き嫌いのあらわれです。

「おいしい」という味や「まずい」という味が存在しないように、「雑音」という音も私たちが勝手に作り上げているものなのです。

二見を離れていく坐禅

仏教で戒められることの一つに「二見にわたる」というものがあります。

これは自分の視点から好き嫌いや良い悪い、正義と悪などの二つに分けて物事を見て判断することです。

まさに雑音の「雑」というのはその例で、自分が聞きたい音だけがする場所を探し求めていったら最後は自分の鼓動すら雑音に感じてしまうかもしれません。

坐禅というのは、こうした日常生活の価値判断である二見を離れていくものです。

直心是道場じきしんこれどうじょうという言葉があるように、二見にわたらない心で坐れば、そこは立派な坐禅の道場となります。

音楽などの、消すことのできる音は抑えるとしても、車の音や人の声や足音など、社会の営みが織り成す音すら飲み込んで、「私は今ここにいる」という在り方が坐禅では大切なのです。

 

 

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